「江戸の色町 遊女と吉原の歴史 江戸文化から見た吉原と遊女の生活」を読んだ
ここ最近は援やパパ活などインターネットと性と出会いみたいなものをテーマに調べています。
前回の現役キャバクラ勤務の女性にパパ活について色々と教えてもらったのでご報告しますの中でも書きましたが、パパ活含め日本における「女性が身体を提供し金銭の授受を行う」という文化のルーツは江戸の遊女にあるのでは?という話が出ていました。
今回は江戸の色町 遊女と吉原の歴史 江戸文化から見た吉原と遊女の生活という本を読んだので、そのメモも含めて色々思ったことなどをまとめてみます。
遊女
最初に「遊女」について軽く触れておくと、
遊女とは、
遊女(ゆうじょ、あそびめ)は、遊郭や宿場で男性に性的サービスをする女性のことで、娼婦、売春婦の古い呼称。「客を遊ばせる女」と言う意味が一般的である。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E5%A5%B3
とあり、
現代風な言葉だと風俗嬢が近いのかもしれないです。
花魁と遊女という言葉が同様な意味で使われたりしますが、正確には花魁は高級遊女のことを指します。
なので高級風俗嬢と風俗嬢の対比がわかりやすいかもしれないです。
古代の遊女
「女性が身体を提供し金銭の授受を行う」意味の遊女とは異なるが、「古事記」で天岩戸に隠れた天照大神を胸をはだけさせて誘い出す天鈿女命が遊女のルーツではと語られることもあるとのこと。
また、万葉集で遊行女婦(あそびめ)と呼ばれる女性たちが登場しますが、彼女たちも遊女の一種とのこと。
ただ、この時代のどのタイプの遊女も宴で舞い踊ったり、身体を提供しても対価が金銭ではないという点で、「女性が身体を提供し金銭の授受を行う」という近代的な娼婦ではないですね。
女性が身体を提供し金銭の授受を行いはじめたのは10世紀後半〜11世紀から
1052年に書かれた「新猿楽記」という本に売春をしている遊女とそれを監督する立場のいわば遊女屋の店主のような人が登場することから、この頃から遊女を営んで生活していた人々がいたと考えられています。
余談ですが、「新猿楽記」には龍飛・虎歩という体位が登場していて、龍飛が正常位みたいなもので、虎歩が後背位みたいなものにあたります。
もしかして最古の体位かもしれないですが、その辺は詳しくないのでわからないです。
騎乗位とかのほうが後発の体位なのであれば誰が発明したのかも気になります。
政府公認の遊女
室町時代に幕府が傾城局という遊女から税金を取り立てる機関を作ったことで、奇しくも遊女が政府公認の立場に。
1585年には豊臣秀吉が京都の遊女町を公認し、室町幕府同様に税金を徴収していたのでこちらも遊女が政府公認の立場となっていたとのこと。
遊郭の誕生
1603年に江戸幕府が開かれると、江戸に日本中から人が大量に集まってきます。
しかし、武士や職人のようなタイプの人ばかりで男性が圧倒的中心でした。
そこに目をつけた遊女屋が江戸に大量に移転してきて大繁盛します。
あまりにも繁盛しすぎて、治安に影響を及ぼし始めます。
具体的には、遊女屋で遊ぶために金を盗んだり、金を使い込みすぎてしまったり。
また、悪質な遊女屋は他人の家の娘を盗んできて遊女にしたりすることもあったとのこと。
こうした問題を重くみた幕府が遊女屋の営業を公認する代わりに政府が決めた場所だけで営業を行うようにしなさいと設けたのが「遊郭」になります。
遊郭、燃える
ただ、江戸の発展とともに遊郭周辺も発展していき人も増え、風紀が乱れていきます。
それを懸念した政府が、幕府のあった場所から離れた吉原(現在の吉原周辺)への引っ越しを命じます。
すったもんだで揉めましたが、なんとか引っ越しに応じてもらい、今の上野の北の方にある吉原へと移動することになりました。
この引っ越しが決まったのち、旧吉原が大火事にまきこまれ全焼します。
事実の前後関係として、全焼したので引っ越しをしたと思っていたのですが、実際は移転が決まったあとのことだったんですね。
完全に政府の陰謀みたいなものだと思っていました。
ちなみに映画にもなっている吉原炎上は引っ越し後の新吉原で1911年に発生した火災についての話なので関係ないです。
また、「遊郭と火災」に関しては、切っても切れない関係にあります。
というのも、遊郭は火災が発生して営業場所がなくなると、仮の住まいを借りてそこで営業できる仕組みになっていました。
普段は遊郭に行かないと遊べなかった人々は、そうした際に一目美しい遊女を見ようと集まります。
結果として遊女屋は遊郭で営業している時よりも繁盛するということも多々あったそうで。
なので、遊郭では結構な頻度で火災が発生しており、1676年~1866年の190年の間に22回も全焼しています。
遊女の境遇
遊女になる女性はほとんどが身売りという形で吉原にやってきています。
貧しい家の親が給金の前借りと引き換えに娘を売るというパターンが多いわけです。
こうした遊女たちの境遇に関しては町民も理解していることから、貧しい家庭を救うべく働きに出た親孝行者の女性として認識されていました。
なので、遊女として働く年季(10年くらいの契約)が終わってからは普通に結婚したり生活できたようです。
これは世界的に見ても結構珍しいことで、ヨーロッパにおける娼婦というのは個人が勝手に売春するものであるので決してそのような理解を得られることはなかったといいます。
- 遊郭の遊女という仕事がいわば国が公認していた仕事であるということ
- 遊女の辛さとその背景を町民が理解していたこと
これらが女性が身を売ることに対しての寛容さを生む要因になったと考えられます。
遊女の格付け
一口に遊女と言っても、色々と格付けがあります。
いわゆる「花魁」と呼ばれる人たちは高級遊女にあたりますが、正確な格付けではなく単なる総称です。
実際は、上から順にこのようになります(リストの階層の深さが時代の変遷に対応)。
- 大夫
- 1751~1764に消滅
- 格子
- 1751~1764に消滅
- 散茶
- 呼出(花魁)
- 昼三(花魁)
- 付廻し(花魁)
- 端
- 局
- 梅茶
- 座敷持
- 部屋持
- 五寸局
- 並局
- 梅茶
- 端
江戸も成熟し小金持ちの商人などの町人が増え、客層の変化が起きたため、時代と共に高級遊女の需要は減り、大夫や格子は消滅します。
いわば遊女の大衆化が起きたといえます。
相場感
遊女と遊ぶにはどのくらいお金がかかるのか、今回この本を読みはじめた一番の目的が実はここでした。
ざっくり、振袖新造(遊女見習い)付き呼出昼三と遊ぶのにかかるお金を今風に表すと下記のようになります。
- 125,000円(指名料)
- 飲み代(お付きのものや取り巻き含めて行為の前に盛り上げる飲み会)
- チップ(遊女の付き人や店の人へ)
くらいかかるとのこと。
キャバクラで散財したあとに最高級風俗嬢とフルコースで夜通しで遊ぶ感じでしょうか。
一方で、筵一枚を敷いて道端で客を誘う私娼の夜鷹という女性もいて、こちらはだいたい350円です。
差がすごい。
遊び方
遊郭での遊び方について。
- 1) 引手茶屋(いわゆる仲介所)に行く
- 2) 遊女を指名
- 3) 廻し部屋に通される
- 4) 宴
- 5) 行為
3,4について補足しておくと、まず客は遊女と行為(床入り)するには遊女に選ばれないといけないです。
通常3で廻し部屋に通されたあと、料理やお酒を頼まない場合は遊女に選ばれないので、必然的に4の宴が必須になります。
ただ、大抵初回は選ばれず、二度三度と足を運んでやっと行為にたどり着けるのが慣習だったとのこと。
余談ですが遊女に選ばれることを「もてた」といい、廻し部屋に遊女が来なかったことを「ふられた」といいます。モテた・フラれたの語源はここからきてるんですね。
ちなみに廻し部屋で朝まで待って結局選ばれなかったという男性もいたようで、モテない男はいつの時代も厳しいということがわかります。
遊女の日常
遊女の日常について、いくつか興味深いものがあったので列挙します。
・年2回しか休みがない。休む場合は自分で休んだ分のお金を店に払う必要がある。
あまりにもブラックすぎて遊女の過酷さがわかります。
・吉原では、身揚りをして「情男」に会うのが粋とされた。遊女が商売を抜きに、心底惚れた男が情男である。情男との恋を生きがいとして暮らす遊女は多かった。
仕事が過酷なのでホスト狂いする風俗嬢みたいな雰囲気を感じる。。。
・粗末な食事
遊女は遊女やでの衣食住は保証されているが、基本的にその全ては質素でした。
また、花魁になると、遊女見習いやお付きの者に飯を食わせる必要があるので金がかかった模様。
なので客はこうした事情を理解しており、飯の工面をしてくれたりすることもあったとのこと。
・「感じるのは遊女の恥」
現代の風俗嬢でも同様だと思いますが、遊女も感じてるフリをしていたようです。
感じると身籠もると考えられていた事情もあり、男性を早くイかせるために様々な工夫が行われていたようで、
ローションがわりに布海苔を煮て溶かして陰部に塗ったり、
湯で戻した高野豆腐を膣内に入れるという今では考えられない様々な技が使われていたとのこと。
・真心を示す切指
客に真心を示すために指を切って渡すという方法があったとのこと。
ヤクザ然り、日本人は何かと指を切りすぎでは...。
・性病
コンドームも性病予防の知識も足りなかったので当たり前のように性病の罹患が発生していたという。
「すべて遊女は初年の内に一旦黴瘡(梅毒)をわずらう」という言葉があったらしく、西洋医学が浸透する以前の性事情のやばさが感じられます。
遊郭以外の遊女
政府が定める遊郭以外の遊女町は岡場所と呼ばれていました。
いわゆる非合法の遊女屋運営をする人たちが集まっていた場所です。
吉原に比べて安く、江戸の市中のいたるところにあったので庶民や下級武士の息抜きの場所として機能していたようです。
また、銭湯に湯女を置き、男性の体を洗いそのまま夜の相手も務めるという業態も誕生していました。おそらく現代のソープのルーツにあたるのではないでしょうか。
その後の遊郭
遊郭は、その後江戸の後期から
により、旧来の遊郭の形を保つことができず、私娼が接待所で自由営業するという形など規制の穴を縫うが如く様々な風俗形態が生まれます。
最終的には1956年に売春禁止法が成立したことで吉原の遊郭は完全に幕を下ろしました。
まとめ
遊女と遊郭についての書籍を読んでメモしたことをまとめました。
インターネットを通じた援やパパ活など現代の私娼とも言えるべき文化のルーツを追うために遊女について調べましたが、予想通り得られるものが多かったように感じます。
遊女の相場感や若い女性は高価で買われ年増の女性は安価に買われることは改めて数百年前からさほど変わらないという点は特に興味深いです。
最後に個人的にグッときた部分を引用しておきます。
江戸時代の社会通念として、「男の遊女遊びは、ある程度は仕方ない」という風潮があり、素人の女性に手を出すくらいなら遊女と遊ぶ男のほうが男らしいとさえ言われた。素人の女性に手を出す男を軽蔑して言った「ぼろっ買」という言葉もあり、そういう男は「性根が悪い」といわれて女性からは嫌われたという。
「金を惜しんで、安い価格で素人に手を出す男は嫌われた」という古の価値観は現代でも変わらないようですので心に留めて置きましょう。